Flowerbed




「ありがとう!最近なんだか景色が綺麗ですよ!笑」
と仲間にチャットで書いたら泣かれてしまった。
どんだけ心配かけてきとんねん。と思いながらちょっと振り返り。

最後に彼女と会ったとき、
「最近何見ても綺麗に見えないんすよ」と僕は言った。
まわりの誰かが、
「今日も世界は美しいわ!」とか
「あの山々の連なりほんま綺麗ね。日本いいわー。」とか
言っているそばで、何にも感じなかった。

この旅に出るときは「なんとかして環境を変えよう」という思いもあった。
当然こんな自分の心の状態は良いとは思ってなくて、けどため息ばかりでどうしようもなかった。
旅に出てしばらくは、リハビリのような気持ちでいた。少しずつ取り戻そう。そんな感じで。


走りはじめたら、やっぱり今回も小さなトラブルはやってきた。
それがやってきて、ちょっと嫌な気持ちになって、それでも逃げるわけにはいかなくて向き合う。
そんなことをしていたら、ちょっといいこともあったり、出会いがあったりする。
そうして少しずつ、少しずつカケラを集めるように走ってきた。


ほんでこないだ書いた「来年は日本を走ろう」とイメージが浮かんだときに、
視界がグッと広がって、なんか思いが空まで届いていくような気がした。
あの日から少しまわりの世界の見え方が変わった。
それはもともとキレイなものに心が動くようになった、自分が変わったという感じではなく
自分の前にずーっとあったカーテンのようなものが取り払われたような感じだ。
そんななかで、最初に書いた仲間とチャットをして、
「最近なんだか景色がキレイですよ」と書いた。


自分のこともちょっとハッキリした。
「学校授業を担当しています」「仕事として旅をやっています」
このふたつに、僕が思いを持って手に入れた肩書きのようなものに、今度は
僕がどれだけ縛られていたかということが分かった。
いや、縛られているというよりこれらの肩書きで”安心していたい”だったのかもしれない。
だから、純粋に自分がやりたい、と浮かんだ今度のプロジェクト。
今は毎日このことで頭がいっぱいだ。考えることが楽しい。ため息出ない。


こんなことも思い出した。これは伝えたいこととして書く。
僕は18からずっと吉本ばななの小説を読んでいる。そんな彼女の小説のなかで
「花のベッドで昼寝して」というのがある。

この小説は、ゲストハウスを切り盛りする家族の物語。
ゲストハウスをはじめて、今は亡くなってしまったおじいさんは不思議な人で、
ちょっとズレたりはするけれど、自分や家族が本当に必要なときやモノがあるとき、
それを実現させてしまう人だ。
小説の中では、子どものアイスのおねだりに対して、近所のおばちゃんがアイスを持ってきたり、
バンドのクイーンのTシャツが欲しいと言って、主人公が学校から帰ってくるとそのTシャツを着て
いて空から降ってきたなんて言っていたりする。

それで主人公がおじいさんとこの引き寄せのようなものについて話した回想シーンがある。
おじいさんが言ったことを要約する。

「人生はゲームだ。いかにして”違うことをしない”かというゲーム」
「ひとは生まれながらにして知っている。けどいろんなものがそれを見えなくする。」
「違うことをすればするほど、そこから離れてしまい、実現するのに時間がかかったり、
叶わなくなってしまう。」
「もしも迷ったときは・・・」←ごめんここ忘れてしまった・・・。

と言うようなお話。最初にこれ読んだときはハッとしたな。ほんと。
このおじいさんの言葉はそれからもずっと心にあったけれど、いつの間にか自分がまた
このお話の会話のようにいろんなものが見えなくなってしまっていた気がする。

僕は自分を作る、とか自分探しという表現よりも、ほんとの自分に”気づく”という表現が好きだ。
世の中にはいろんな人がいて、人それぞれ違うだろう。けど僕はこの表現がなんとなくしっくりくる。
学ぶじゃなくて気づく。という感覚。
それはもともと自分のなかにある、という感覚。


なんか最近は、自分が自分の器にピタッとはまってきたような気がして嬉しい。